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zoom RSS 寺山修司は「映画なんて嫌いだ!」と叫んだ?

<<   作成日時 : 2009/06/01 00:31   >>

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シネ・ヌーヴォで開催中の「寺山修司 映像詩展2009」から,今日までに3枠を観た。

感想を上げた『田園に死す』(1974年)に加え,長編処女作の『書を捨てよ町に出よう』(1971年)と『草迷宮』(1979年)の3本だ。

その他,『草迷宮』と同じ枠内で,3分の短編『青少年のための映像入門』(1974年)と,追悼的に製作された『空には本』(2008年)の2本が併映された。


寺山映画は,基本的にアヴァン・ギャルドであり,同時代の常識的な映画の撮り方・作り方に風穴を開け,さらに映画と観客との関係性をも破壊しようとしたようだ。

今観ても,ずい分と思いきった映像実験をしたものだと思った。

「前衛」たらんとするなら,常に従来の様式や常識を突き破ることを要求されるのがサダメ。

時代と迎合しては,もはや「前衛」とはいえないのだ。


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『書を捨てよ町へ出よう』あたりは,リアルタイム劇であり,70年代初頭の時代性を強く盛り込んでいるため,私の世代が観ると,どうしても懐かしさが先に立ってしまう。

これは映画というメディアの宿命だと思う。

絵画や彫刻などの造形芸術,演劇などの舞台芸術と違って,映画は「時代」のありのままを,運動としてフィルムに定着してしまうのだから・・


この『書を捨て・・』には仕掛けがあって,冒頭とラストで観客に語りかけ,観る者の参加を要求する。

ラストには何もない白いだけのスクリーンを見せて,観客に創造を求める。

そういった点で,まさに挑戦的であり挑発的だ。


しかし,映画にまつわるこの種の問題・・ そのメディアとしての限界を突き破ろうとする挑戦は,今の時代にピンと来るだろうか?


映画の「芸術」としての進化については,産業としての凋落と,その後の自堕落な復興のなかで,作る側も受ける側も後退してしまった。

暗闇の中で,単純に夢見心地でいい気分になっている観客を,突然糾弾してみても,もはや受け留める側が存在しないのだ。

確かに,上映途中で急に灯かりが点され,客席が照明にさらされたとき,冷水を浴びせられ,夢から引き戻された感じはするが・・

それは唐突で印象的な経験ではあっても,結局,「映画」の可能性を広げることはなかったように思う。


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ハンフリー・ボガートや藤純子が好きだったという主人公役の青年は・・

白々しく切ってつなぐことを身上とする映画撮影に失望し,「映画なんて嫌いだ!」と叫んだ。

それは,案外,寺山修司自身の本心だったのかもしれない。


一つ付け加えると,寺山映画は映写にあたって,劇場にまで「映画」に参加することを要求する仕掛けがある。

つまり,家でDVDで観ても解らない映画だという点では,個人的に好感が持てる。

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