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zoom RSS 映画『田園に死す』 〜肉体を持った前衛〜

<<   作成日時 : 2009/05/27 01:16   >>

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先週末からシネ・ヌーヴォで「寺山修司◎映像詩展2009」が始まった。

寺山修司と聞いて,まっ先に浮かぶイメージは前衛演劇の鬼才・・

宇野亜喜良が描いた「天井桟敷」のシュールなポスターとともに思い出される。


もとは俳句・短歌から出発した文学の世界の人らしいが,歌謡曲の作詞はやるし,はては競馬評論みたいなことまでやっていた記憶がある。

どうも映画作家のイメージがわいてこないのだ。

寺山修司が映画を撮っていたのは主に1970年代。もっともリアルで観ていたのは団塊の世代あたりだから,私よりずっと上だ。


そんなわけで,今さらながら,寺山修司の映画を初めて観た。

うわさに聞く観客参加型のパフォーマンス映画ではなく,普通に観られる劇場用映画にした。1974年作 『田園に死す』だ。


といっても,その位相は,まぎれもなくアヴァンギャルド・・ つまり「前衛」だ。

「前衛映画」なんていうと,何か小難しく訳のわからない作品といった先入観があるが,この作品を観る限り,少しも難解ではない。

確かに,映像の展開は唐突だし,時空間の常識は無視されて,不思議で奇妙キテレツな映像のオンパレードだ。


しかし,その映像は,高踏的な前衛作品によくあるような,頭でっかちで,哲学的空気を漂わせるだけの空疎なものではない。

ここに表現される男女や親子の愛憎,エロティシズム,言いようのないイラ立ちなどは,いわば,人間の魂と肉体を持ったものといえるだろう。

言い換えれば,人間の原初的な感覚に訴え,日本人の土俗性に根を張った映像なのだ。

だから,人間である限り,日本人である限り,この作品は言葉では語れなくても,感覚的に解るのである。

劇中劇など輻輳構造になってはいるが,そんなことは一向に気にならないし,現在の自分が過去の自分に会いに行くなどという設定も,すんなり受け入れられる。

「柱時計」の奇妙で執拗な描写なども理屈関係なく面白い。


全編に,母親からの逃避,母性的束縛からの脱却といったテーマがあり,主人公の少年は,寺山自身の少年期の投影であるようだ。


ともかく,様々な「女」のステロタイプが登場する。

自分を溺愛し縛りつけようとする母,貞淑の仮面を被って生きる隣の嫁,乳呑児を抱えてさ迷う女,男に頼って生きるサーカスの空気女,もはや女といえないイタコの老婆・・(失敬!)


思春期になると,「女」は色恋の対象となり,次第にエロティシズムが芽生え始める。

そのとき,男は母親の粘着質な愛を疎ましく思うようになる。

これは,日本人の男なら誰もが踏んできた道だ。


当時40歳手前だった寺山の,自らの過去に対するイラ立ちを思わせるが・・

しかし,結局,映画のなかですら,母親を抹殺することはできない。全ては無抵抗にスパイラルにはまるばかりである。


ラストシーンは,最近でこそTV番組でよく使われる手だが,オオッと思わせる。

あれは,今の新宿アルタ前だな・・ たぶん。


主人公の少年は,われわれ世代には懐かしい高野浩幸。それにしても,当時13歳でまだ子役の高野をあんな目に会わせるなんて・・ しばし絶句。

母親役の高山千草は,オッサンかと見まごうほどの嫌らしさ。日本のある種の母親像を体現していて怖かった。

サーカスの面々はフェリーニ作品を思わせるが,寺山修司という人は,どうにもエロティシズムがおさまらないようだ。

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