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zoom RSS 映画『太陽はひとりぼっち』 〜こういう映画の接し方〜

<<   作成日時 : 2008/12/29 00:16   >>

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ミケランジェロ・アントニオーニの映画は解かりにくい・・

クラシック映画をまだ観始めのころ,『さすらい』(1957年)や『太陽はひとりぼっち』(1962年),『赤い砂漠』(1964年)のような作品群に接したが,何だかよく解からない印象が強かった。

映画史上の巨匠だと言われるし,皆が誉めるから,「ああ,何だか立派な作品なんだろうな・・」ぐらいの認識しかなかった。

その頃は,まだ,“心を開いて,映像を受け留める”という最も基本的な接し方ができていなかったのだ。

ハリウッド映画と同じように,ストーリーの面白さを追ったり,映像の美しさや迫力を期待したのでは,こういう映画の真髄には触れられない。

しかし,接し方さえ体得すれば,この種の作品を恐れる必要はなくなる。言葉では表現できない「映像感覚」を,ただ自分なりに受け止めればいいのだ。(なんて言うのは簡単だけど・・)

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アントニオーニの作品は,風景描写に真骨頂がある。心象風景を映像にして見せる凄みは,「映画」というメディアの本質を極めた感があり,その作品群は,ある意味でとても“映画的”なのだ。

どこか無機的で,茫漠とした風景・・ 多くの場合,登場人物以外に人気(ひとけ)のまるでない殺風景な舞台装置。

それによって視覚的にわき起こる不安感や孤独感・・

今回,『太陽はひとりぼっち』を,新文芸坐の大スクリーンで観なおして,まず感じたことは,何の変哲もない風景に込められた感覚的鋭敏さ。

冒頭から延々と続く男女二人だけの葛藤。人気ない早朝のニュータウン。いきなりの「愛の黙殺」。

場面変わって,証券取引所のゴウゴウたる喧騒。「金の亡者」たちが織りなす欲望の渦。

そこにあるのは,現代社会が抱える人間性の喪失・・

肉体でひと時の「愛」を交わしながら,結局,互いの心をゆだね合うことのできない男女。

幾何学的なニュータウンの一角,モニカ・ヴィッティとアラン・ドロンは心を通じ合えたかに見えたのだが・・

二人の姿は喪失し,そこにただ繰り返される主人公のいない風景。風にゆれる木立,水の溜まったドラム缶,乳母車を押す女,通り過ぎる馬車,日暮れにバスから降りてくる顔のない群像・・

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この時代のアントニオーニは,「愛の不在」をテーマにしていたとされ,辛気臭い作品が多かった。敬遠する向きもあったかもしれない。

しかし,遺作となったオムニバス『愛の神、エロス』(2004年)のなかの一遍では,芳醇なエロスと生命感を湛えた小品を発表している。 →この作品の感想はココ

そんな単純な才能ではなかったはず・・ 日本でも,もっと多くの人に観られていていい映画作家なのではないかと思う。

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